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平成30(2018)年に国の重要無形民俗文化財に指定された松前神楽(まつまえかぐら)。「神楽(かぐら)」とは、神様をまつるために奉するさまざまな歌や踊りのこと。神恵内村では古くから、村の小中学生がお祭りの際に披露する役割を担ってきた。
重要無形民俗文化財の指定 松前神楽
(文化庁 報道発表 2018年 より引用)
文化財の所在地
北海道函館市、小樽市、北斗市、松前町、福島町、知内町、木古内町、七飯町、鹿部町、森町、八雲町、長万部町、今金町、せたな町、島牧村、寿都町、黒松内町、蘭越町、喜茂別町、京極町、倶知安町、共和町、岩内町、泊村、神恵内村、仁木町、小平町
①文化財の特色
本件は、採物舞(とりものまい)、巫女舞(みこまい)、湯立神事(ゆたてしんじ)、獅子舞を揃って伝承する稀有な神楽である。神職による神楽には伝承例の少ない『千歳(せんざい)』『 翁(おきな)』『三番叟(さんばそう)』を伝える点にも特色がある。また、演目や芸態等に東北地方の諸神楽との関連もうかがわせる。このように本件は芸能の変遷過程を示し、地域的特色を示して特に重要である。
②文化財の説明
本件は、北海道南部で神職が中心となって伝承する神楽である。直面(ひためん)の採物舞をはじめ、巫女舞、湯立神事、獅子舞、さらに仮面の翁舞等、多彩な演目を伝え、太鼓や龍笛(りゅうてき)、手平鉦(てびらがね)の演奏にのせ、一間四方(いっけんしほう)を舞の場として演じられる。松前神楽の起源は明らかではないが、延宝2年(1674)に初めて福山城内で湯立神楽が行われたとの記録があり、また、松前藩主が寄進した獅子頭も現存する。このように松前神楽は松前藩との深い関わりのもとで行われていたが、現在では、渡島(おしま)地方を中心に、檜山(ひやま)地方や後志(しりべし)地方、さらに留萌(るもい)地方の小平町にも伝承され、各地の約120に及ぶ神社の例祭や新年祭、船魂祭(ふなだまさい)等において神社拝殿で演じられるほか、厄除け祈願や新築祝い等の依頼に応じて個人宅でも行われる。また、新年の門祓(かどばらい)として地区の家々を巡って獅子を舞わすこともある。
引用ここまで
神恵内村での伝承の取組は、今の80代の方々が、今で言う小学生の頃に、地元で松前神楽をやったというのが、そもそもの始まりとされる。それまでは、近隣の神主さんらが、松前神楽をお祭りなんかではやっていた。それを地元の子供たちが習って始めたというのが、神恵内村における松前神楽の発祥であり、代々子供たちが習って、今に受け継いできたというのが、神恵内松前神楽保存会のルーツとされる。
いわば、地元の子供たちの手によって、これまで継承されてきている「お神楽」である。
神恵内の松前神楽の取組について話を聴かせてくれた神恵内厳島神社宮司 板谷一弘さん
当時は、今の保存会のような組織はなく、神社に出入りする神楽を好きな子供たちが、神主さんから教えてもらいながら、練習を行っていた。それが段々、10年、20年経つ中で、地元の中学生の1年生から3年生までの期間で、地元の神主さんがその年の中学1年生の興味ある子供達10人ほどに声掛けをし、3年間を1つの周期として、繰り返し松前神楽の練習に取り組むようになった。当時は、子供の数も多かったため、全員が全員松前神楽をするということではなく、興味があって、神社の行列やお祭りに参加していた子供たちの中から、声掛けがなされた。
板谷宮司が、宮司になったきっかけは、松前神楽であった。神恵内村で生まれ育った子供時代に、神楽に触れ、いわば、神楽を続けたいという思いから、神主になりたいと思うようになった。当時は、中学卒業と同時に1/3程度は就職をする時代。一般的な進路としては高校進学ではあったが、板谷宮司は、進路をどうするかと考えた時に、「神主になって、お神楽を継続したい」と思い、当時の神恵内の宮司が函館から来た方であり、紹介してくれることになり、15歳で見習いとして函館の神社に入った。その後、定時制高校に通いながら、神社での修行を行い、國學院大學で神職資格を取得し、何年かしてご縁があり、今の仁木神社へと来た。その後、10年ほどして、神恵内の宮司がなくなり、以来、神恵内の厳島神社と仁木神社の宮司を、平成7(1995)年から兼務することとなった。
その当時は、正式な神恵内松前神楽保存会はなかった。神社の中だけでの組織はあったが、今のような組織化されたものではなく、板谷宮司が村で松前神楽を始めた先輩方や、今の保存会の会長などに相談しながら、「神恵内松前神楽保存会」を組織した。
その頃から、子供の数は段々と減りつつあった。今の80代の方々が始めたころは、中学生で3年周期という設定もあったが、今は小学1年生からでも、興味があれば、誰でも受け入れている。今では国の重要無形文化財にもなった「松前神楽」が、村の文化として、これからも継承されていくことを願い、村の子供たちにお神楽に慣れ親しんでもらい、この先も受け継いでいってもらうために、平成7年に保存会を組織し、今の形となっている。
今は、コロナ禍でしばらくの間実施は見合わせているが、普段であれば、板谷宮司が1日と15日は神恵内村を訪れてのお参りがあり、その晩に、地域の子供たちが神社に集まって、板谷宮司による松前神楽の指導が行われている。また、何かお祭りやイベント等があれば、月2回に限らず、3回、4回とその行事にあわせて、練習を重ねている。特に6月からは、毎年7月14日~16日の神恵内厳島神社祭典(神社のお祭り)に向けて、指導・練習にも力が入る。
最後にこぼれ話を。板谷宮司に「当時15歳の板谷宮司は、なぜ、そんなに神楽が好きだったのですか?」と訪ねてみたら、こんな応えが返ってきた。
板谷宮司「まず、神社が好きで、お祭りが好きで、お神楽が好きで、これを継続してやっていきたいという思いがあって」
筆者「そうですよね。今も、神恵内の厳島神社のお祭り(毎年日付固定の7/14~7/16開催)の時、皆楽しそうですもんね」
板谷宮司「うん。だって、神楽は、『神が楽しむ』って書くじゃん。そして、神が楽しむっていうことは、一緒に我々(人)も和み楽しむっていうことを、『神人和楽(しんじんわらく)』と言って。お神楽とは、そういうものなのですよ。神様が楽しければ、我々も一緒に楽しむのですよ、というのが、言葉の意味だから」
自然に対する畏敬の念を抱き、自然と共に生きてきた、日本人の心の根っこについての話を聴かせて頂いたような気がした。
●この記事を書いてくれた方:岩宇の応援団101号
岩宇訪問歴6年、訪問回数50回以上。岩宇を第2のふるさとだと感じている北海道在住のとあるアウトドア好きの人。